『人間の安全保障』


 東大駒場の学問と雰囲気にマッチした「人間の安全保障」の教育研究を反映した教科書です。構想・企画からブツができるまで、驚くほど速かったのが編者としての印象です。(そう言えば、『国際関係研究入門』も速かったなあ。)編者の2名は、「人間の安全保障」基礎論のT(マクロ、国際社会と人間の安全保障)とU(ミクロ、人間存在と人間の安全保障)の担当者です。序章と終章をそれぞれ書いています。
 2004年に立ち上げた東京大学大学院「人間の安全保障」プログラムには、構想段階から関わっていました。秘話の類になるかも知れませんが、人間の安全保障について私が詳しかったからというわけではなく、国際的で学際的な研究している駒場の大学院に相応しいテーマが何かないかと考えあぐねていたら、人間の安全保障に邂逅したのです。研究も大切だけど、実践こそが重要だという教育方針も、このプログラムの新機軸です。
 教科書としては、体系性ないし大系性が少ないかな、と少し気にしています。他方で、人間の安全保障という問題設定で括ることのできる学問分野や問題領域の広さを印象づけることには成功したかな、と自己評価しています。読んですっきりしたとか面白かったとかいう類の本ではないので、売れ行きはあまり芳しくないようです。もっと関心を持ってもらいたい分野なんですけれどね。



◆ 短評 ◆

 

 かれこれ3、4年前になるが、定例の研究発表ゼミで、山影先生が珍しく熱くお話になったことがある。先生が問題とされたのは、「new(新たな)」という言葉で形容された語句(例えば new regionalism)に共通するある種の胡散臭さであった。「newという言葉は、既存のものと違う、というメッセージこそ伝えるものの、この言葉自体は何らサブスタンスをもたない。だから、「newナントカ」という語句を目にしたらまず疑ってかかれ、newが指し示す内容(有無も含め)を洗い出せ、自分は使うな、もっと実のある言葉で表現しろ、どうしても使いたいならそれなりの覚悟を持て!」。私の拙い表現力と少々脚色してしまった語尾はご容赦頂くとして、この日の論文指導を機に多くのゼミ生が「newナントカ」に殊更敏感になったわけである。
 さて、本書のタイトルにもなった「人間の安全保障」は、1994年に提唱されて以来10余年の間、学界や国際社会の現場でよく耳にするようになった考え方である。ここ数年の間、これを扱う専門書や学術論文も急速に蓄積されてきた。しかし、「人間の安全保障」の研究史には、研究者個々人の意図の存否に関わらず、常に「newナントカ(安全保障、視点、実践、概念、学問分野などなど)」という華やかな宣伝文句がついて回ったことも事実であろう。そしてそれ故に、「人間の安全保障」は学界の至る所で「何がどうnewなのか?」が問題とされ、サブスタンスのはっきりしない、よく分からない考え方であるとの批判に晒されてきた。
 この様な「人間の安全保障」をめぐる概念論争の流れと本書の立ち位置については、編者まえがき及び序・山影論文にまとめられている。山影は国際社会における「人間の安全保障」の考え方の生成と展開を整理する中で、その時々の使い手がこの言葉に込めた意図を徹底的に洗い出す一方で、この言葉を用いていない同種の考え方の潮流を掘り起こすという二つの作業を通じて、ともすれば「newナントカ」で語られかねない「人間の安全保障」のサブスタンスの集積と相互関係を描き出すことに成功している。もっとも、より注意を向けるべきは、この様な仕事はあくまでも本書の導入部分にすぎないのだ、という隠れたメッセージであろう。後に続く所収論文を一読して明らになるとおり、本書は決して「人間の安全保障」をめぐる概念論争を決着させて「正しい」理解の仕方を教示しようと意図するものではない。各論文の丹念な仕事から浮き彫りになるのは、「人間の安全保障にかかわる諸問題」すなわち、貧困と紛争の悪循環によって至る所で人間の尊厳が脅かされるという今日の人類社会の厳しい現実とこれまでの国際社会の対応様式、そして一見すると別個のものに見える複数の問題や対応の有機的関連性である。本書が読者(高校生から実務家、研究者まで幅広く想定されている)に期待するのは、この様な状況が読者自身を取り巻く世界の中で生じているという事実に意識を向け、自身に関わる問題として考えていく力に他ならない。
 本書所収の論文を通じて読者(特に研究者)が目にするのは、今日の人類社会が抱える解決困難な課題を正面から見据え、それまでの自身の研究の営みに引きつけて考えようと切磋琢磨する研究者の姿である。巻末の執筆者紹介の欄に設けられたQ&A「一言:あなたにとって『人間の安全保障』とは?」をみても、「人間の安全保障」は読者自身が自分を取り巻く世界の中で遭遇し、それぞれの接点を見出さなければ生きてこない考え方なのかと思う。少なくとも本書を読了すれば、「『人間の安全保障』って要するに何なんですか?」と斜に構えたままではいられなくなる。

  東京大学総合文化研究国際社会科学専攻研究生
山元菜々(オーストラリア外交、アジア太平洋安全保障協力)



◆ 目次 ◆


 序 地球社会の課題と人間の安全保障 (山影進)


 T 歴史の教訓
 <誰>をめぐる問いかけ−マダガスカルの歴史から (森山工) 
 なぜ独立国家を求めるのか−ギリシアからコソヴォまで (柴宜弘)
 ジェノサイドという悪夢 (石田勇治)


 U 文化の潜勢力
 差別・暴力の表象と他者−エドワード・サイードのメッセージ (林文代)
 読み書きと生存の行方 (中村雄祐)
 展示の歴史と構造−声調言語と盲人をめぐるリテラシー (吉川雅之) 


 V 経済発展の未来
 貧困削減を目指す農業の試練 (木村秀雄)
 環境と向き合う知恵の創造−沖縄農業の挑戦 (永田淳嗣)
 サステナビリティと地域の力 (丸山真人)


 W 社会の再生
 越境する人々−公共人類学の構築に向けて (山下晋司)
 深化するコミュニティ−マニラから考える (中西徹)
 「つながり」から「まとまり」へ −中国農村部の取り組み (田原史起)


 X 平和の実現
 崩壊国家のジレンマ (遠藤貢)
 平和構築論の射程−難民から学ぶ平和構築をめざして (佐藤安信)
 新しい日本外交−「人間の安全保障」の視点から (大江博)
 平和構築の現場−日本は東ティモールで何をしたのか (旭英昭)


 結 人間存在の地平から−人間の安全保障のジレンマと責任への問い (高橋哲哉)