国際関係を学ぶ

山影進

 社会的動物である人間はさまざまな社会を作ってきました。最大規模の社会が国際社会です。国際社会にもなわばりがあります。地球の表面を、約60億人が生活している陸地中心に、大小200ほどに切り分けています。なわばりは障碍ですが、それを越えて人・物・カネ・情報が行き来します。なわばりを越えない人も、出入りする人・物・カネ・情報から影響を受けています。そして、なわばり内部の状態は千差万別です。
 なわばりを国境、その中を国土といいます。それを自分のもののように管理しようとする組織を国家といいます。国家は国境内で秩序を維持する責任があるだけでなく、外部からの攪乱を防ぐ責任があります。しかし、格差の是正や差異の平準化のために、国際社会全体を管理できる制度はありません。その意味で、国家の役割が大きく、国際社会はとても分権的です。
 このあたりから、いろいろな問題が出てきます。

☆国際社会は社会と呼べるのか?
 社会では構成員同士の暴力沙汰は禁止されているのが普通ですが、国際社会では国家の名による組織的な暴力関係(戦争)が認められてきました。今では禁止され、違反国には制裁を課すという建前ですが、実際には自衛を理由にして戦争に訴えることが可能です。
 これでは社会ではなく弱肉強食の自然状態に近い、とする見方が登場します。誰も助けてくれないかもしれないので、国家は自らの力を増強することをめざすべきだ、と主張します。
 これに対し、社会と呼べるくらいは一定の価値の共有があり、暴力行使も制度化されている、という反論も有力です。確かに戦争も起こるが、多くの場合平和的な関係が保たれており、共通利益の実現のために国家は協力できるのだ、と主張します。
 さらに、戦争もあり得る社会が成立しているのは、国家同士がそのような分権的な状態を維持することに共通の利益を見出しているからだ、との見方もあります。いわば、国家は戦争を欲しており、暴力の独占を続けたいのだ、という意見です。

☆国家は自国を管理できるのか?
 たしかに日常的に武力紛争が起こっている国際社会ですが、よく見ると、本来なら起こらないはずのなわばり内部での暴力行使がほとんどです。国家は、他の国家と戦争するのではなく、国内の暴力を抑止できないでいるのです。なわばりの内側が「まともな社会」になっていないのです。
 人々はエスニシティという単位でまとまっていて、国家のなわばりとは緊張関係にある、と主張する人がいます。ある集団が国家を私物化しているため、抑圧されている別の集団は新しいなわばりをして自分たちの国家を作ろうとしている、と言う人もいます。
 現在のなわばりは、人々の生活を無視して帝国主義勢力が勝手に引いたものだから、なわばりの内側が「まとまった社会」にならなかった、と主張する人もいます。勝手にひかれたなわばりを与えられた国家が、その内側をまともに管理できるわけがない、と言います。
 そもそも、まともな社会ができていないのに、なわばりを管理する国家を認めてしまったことが問題だ、と主張し、難民問題も貧困問題も、結局、ダメな国家がまともな国家と同じように存在するためだ、と結論づける人もいます。

☆国際社会はどうなるのか?
 まともな社会の上にできた国家も、今やなわばりを管理できていないように見えます。金融危機、国際テロ、感染症などが襲うのはダメな国家に住む人たちだけではありません。今日の技術が可能にしたなわばりを越える交流は、もはや国家が管理できない規模と速さになったのでしょうか。
 人間の社会を国家が分節化して管理しようとするのは時代遅れだ、という意見があります。実際、既に国家に代わって、地球上の人々に最大の影響を及ぼしているのは◎◎◎◎だ、と主張します。この◎◎◎◎は、神がかったアメリカ帝国だったり、少数の資本家が結託した世界市場だったり、剔り出すことさえ困難な不定形のネットワークだったり、人によりさまざまです。
 そうした何物か(何者か、ではないかも知れません)が地球上の人類を管理しているのでしょうか。もしかすると、それが管理しているのはカネや資源であって、人間を人間らしく扱うことには関心がないのかも知れません。

☆私たちは何ができるのか?
 今日の国際社会にはこのような問題がさまざまな姿に変えて遍在しています。偏在ではなく、遍在です。複雑な国際社会をさまざまに切り分けて国際政治、国際法、国際経済などと称して分析してきましたが、私たちが直面している問題の解決にまだ成功していません。自分たちの社会なのに、まだ判っていないことが山積しています。
 人類の未来を心配するなら、歴史から学ぶ姿勢が大切です。だれがどのようにして今日の国際社会を作ったのか、見直しましょう。社会科学によって機能分化させられた人間像から全体像を再構築する知恵の鏡(教養と常識)を磨くことも大切です。そして、他者への共感をグローバル・コミュニティにまで広げましょう。ただし、他者は自分と同じように考えていないかも知れない、と思い至る常識を皆さんは既に持っていますよね。自分とは違う他者との共存。それを地球規模で、そして日本を取り囲むアジアの中で考えるのが国際関係を学ぶということなのです。
 東大駒場にはこのような問題を深く考える機会が数多く用意されています。だから東大駒場が国際関係を学ぶのにふさわしい場なのです。
                                                                                
                                                                                     (以上)

出典:「国際関係を学ぶ」「教養学部報」2006年2月号(通算490号)

トップページへ